初めて履いたヒールが魅せる世界に、ドキドキしていたあの頃
初めてヒールを履いたあの日は、今から10年以上前のこと。
ズキズキするつま先の痛みを、我慢して。お母さんに内緒で借りて、憧れのあの子とデートに出かけたあの日。
なんだか、耳元や口の周りがむずむずソワソワして気恥ずかしいのに、世界はいつもと色を変えて目に飛び込んできて、
まるで空中に少しだけ、浮いているのかと錯覚するくらいわたしをドキドキワクワクさせた。
あの日のように、子供の頃は周りに「世界に色がつく瞬間」がいっぱい転がってた。
そういうものに出会うたびにドキドキして、ワクワクして、胸が張り裂けそうなくらい、涙がこぼれそうなくらいときめいてたような気がする。
例えばそれは初めて見た真っ赤な夕日だったし、とてつもない色をした、沖縄ブルーの海だったし、何回めかわからない一生のお願いで買ってもらった、おもちゃのキーホルダーだった。
初めて手にした匂い玉も、ガチャガチャで出てくるキラキラ光ったキラーカード(そう呼んでたけど、今思うとめちゃめちゃ物騒な名前のカード)も、はじめて夢中朝まで書いた小説も。
探さなくたって世の中はいつだって、ときめきに満ちてた。
それがいつの間にか、不思議が不思議じゃなくなって、子供の頃の「ありえない」は「あたりまえ」になった。
子供の頃、宝物のように持っていた宝石が、それはイミテーションだよ、と悪い大人に教えられて、そのものに対して同等の金額でしか価値がはかれなくなる感覚。
どんどん感覚が鈍くなって殺されていくあの感触は、一体なんて呼んだら良いのだろう。
あの感情に、わたしは未だ名前がつけられない。そしてただただ、理由もわからずずっと哀しい。
これが「大人になる」ってことなのかなあ。
27歳を迎えてもなお、”子供っぽいよね” と言われてしまうのは、きっと自分の中の大人を、認めきれていないからだと思う。
今もまだ、あの日の宝石を、イミテーションだと認めたくなくて必死に目をつぶっているんだろう。
わたしが「世界」を意識したのは、落書きだらけのジャポニカ学習帳の裏にみつけた、「エアーズロック」の写真だった。
それは小学生だった当時、あまり感情の起伏がない子供だったわたしの、心が珍しく波打った瞬間で。
サンタさんからプレゼントが届いた朝よりも、ドキドキしたのをよく覚えてる。
あまりの美しさに文字通り「釘付け」になって、そこから一瞬も目を離せなかった。
休み時間になるたびに、取り出しては眺め、取り出しては眺めをずっと繰り返してた。
そんなエアーズロックは、わたしにとって子供のころから変わらず「世界に色がつく瞬間」の可能性をもっている、今となっては貴重な宝物のひとつになってしまって。
だからこそ、ずっと怖かった。見てしまったら、また失ってしまうんじゃないかなって。今までずっと避けてきた。
「世界一周をする」と決めたときに、最終ゴールをオーストラリアにしたことは、
同時にわたしが、 必死につぶっていた目を、開ける覚悟をした瞬間だった。
わたしは後悔するだろうか。それとも歓喜に震えるだろうか。
たったひとつ残った宝物は、ちゃんとわたしを大人にしてくれるだろうか。
あの日の宝石をイミテーションだと認め、ちゃんとサイズのあったヒールを、この日本の地面に向かってカツカツ、音を鳴らせるだろうか。
世界一周出発まで、あと2ヶ月ちょっと。